re(230606)-無題

人間の情報で、一番はじめに失われるのは声だと思う。

父方の祖母は、昨年の1月に死んだ。私が年賀の電話をした、3日後だった。私が来週成人式だと言うと、「そうかい、そうかい」と栃木訛りの相槌を打っていた。夏に会いに行く度、「あらまぁ、大きくなってぇ」と驚き、彼女からしか聞かないイントネーションで、私の名前を呼んだ。よく喋り、よく笑う人だった。

母方の祖母は認知症で、5年以上老人ホームにいる。もう末期らしい。彼女と最後に交わした会話は思い出せない。彼女の声も、もう思い出せない。記憶か妄想か定かではない幼少期の映像だけが思い出される。

光も物質のその運動も、その瞬間だけ人間に作用する。そして消える。それに対する解釈だけが、言葉だけが残り、後世の人間を呪い、刻み、造る。

言葉は呪いである。名前は呪いである。

私の名前は中国の季語から取られた。暑い日に生まれたから、そう名付けたらしい。優しい子に育ってほしいとか、強い子に育ってほしいとか、そういった祈りは込められていない。私はただ、暑い日に生まれた人間である。

自分の名前は救いだ。私は誰かの祈りが込められた人間ではないと思うと安心する。親、ありがとう。私はただ人類が自然に対して与えた名を借りている。

「人が思想を語るのではなく、思想が人を語るのである」と西谷修は言うが、そうであるならば、人は言語に語られ、名に語られるのだろう。自然のようにありたい。こちらがそこに何も見出さなければ、ただそれとして生き、死ぬような、カオスに開かれた自然のようにありたい。何者にもなりたくない。しかし常に既に規範に晒されつづける動物がそのように生きるには、意味に凝ることが必要だろう。意味に凝ることは、文脈に凝ることであり、言語に凝ることだ。分類に、規範に、法に、言語に徹底してこだわり、その境界に身を置き続けること。

声は失われ、言葉が残る。それ自体には、哀惜も、愉悦も、意味もない。ただそうであるだけだ。雨でも風でも雪でも夏の暑い日でも、ただそこに在る。もしくは無い。言葉が生む、あるいは言葉を生む闘争の中に絶対に身をさらし続ける、一方的な承認の立場にあると誤認しない、何者かになれという命令を拒否し続ける、そういう強い意志をもって生きていきたい。

 

230606
これは希死念慮やら鬱やらの時期(のちょっと元気な時)に書いた文章を推敲し直したやつ。論理めっちゃガバいし所どころ諄いけど、鬱のドライブ感があって良いのでそのままにした。最後「生きたい」って書いてて、感動した。