謝辞

「私はかなり君と仲がいいと思っているよ」
「オレも毎日寝る前にそうだといいなと思ってました」

何度もリフレインしては大事に記憶している会話がいくつもあります。そういうものに生かされています。

人間関係という継続的な何かは無くて、あるのは対話のその瞬間のみだと思います。だから、2人で向かい合って話すことをとても大事に思っています。相関図に表せるような関係性は存在せず、私—あなたでしかないということです。これは、ある種の信仰、つまりは国家も民族も人種もジェンダーも共同体も無し、あるのは人間と彼の認識だけという信仰に基づいています。共同体の否定、内部と外部の否定、善と悪の否定、これは安易にナチ的ファシズムに回収されうる論理(ニーチェがそうであったように)ですが、それを拒否する有効な手段のひとつは世界を承認することです。ファシズムは、外部を措定しそれを排すことで、全て=ひとつを志向しますが、「世界でしかない」ことを認めればそんなことにはならない。

ところで、恋人の文脈で使われる狭義の「付き合う」という言葉は、やはり意味を持ちえないように思います。無い人間関係の連続性を措定し、それに安心感を得るのはどういうことなのか、そういう種の安心があることを理解はするけれども、私はそれをどうも信じ切れないようです。その意味では、書かれた言語の方がよほど信じるに足る。

話を戻します。人間関係は無くて、あるのは対話の瞬間のみだと書きましたが、それだとまるで相手は誰でもいいようです。けれども決してそうではなく、私が話を聴き、あるいは私の話を聴いてくれるあなたは非人称の〈ひと〉ではなく、私が名前を呼びうる他でもないあなたなのであって、あなた以外であることはありえません。

さて、あるのは対話の瞬間のみなのに、その瞬間瞬間の永遠をどうしようもなく願ってしまいます、あまりに軟弱ですね。その軟弱さが、私に会話をリフレインさせるんだと思います。

そういうことを考えました、今日はいい日です、私に話を聴かせ、私の話を聴いてくれる親愛なる友人たちへ、マジでいつもありがとう。