君、あるいは過去への返答

過去に書いた文章群から、会話というトピックに関連があると思われるものをピックアップして追記・返答・解題しました。

私から発せられる言語を言語として承認してくれる人間にはたくさん会って自分を託した方がいいし、守れない約束も山ほどした方がいい。この約束は契約ではなく誓約、連綿と続く一瞬として在る、世界への信、つまり森林公園の細くて静謐な散歩道の隅っこに咲く花。(20201116)

 この時から「とにかく瞬間なのである」と信じていたことに驚きますが、鬱と名指される状況だと直線的な時間をだいぶ観念しづらくなるので納得はいきます。他人との約束は誓いであって、世界への信であって、それは花であるらしいです。とても良いと思います。

私が超微分的な信託を上手にできないのは、ジャンク品の傾聴スキルを輸入してきては、浮気にもそのゲームを楽しんでいるからで、勝手に他人を受諾した気になっては苦しむばかり、いや、本当はそんな事なくて私ばかりが溶解されてるのかも知れない、こんな形而下の話はどうでもいいんだ、それよりもっと大切なこと、一緒に夜の海を見にいこうよ。(20201116)

 「超微分的」って一体 何でしょうね。ドゥルーズ語であることだけ分かる。その後はそのまま、自己愛!って感じです。

自殺は他殺、自分は他人の生きた可能性なので、でも他人が見るワタシは決して"他人に息づく私の欠片"ではない、"私"を造る/"私"に在る/"私"である他者、世界中の誰からも遠いタシャ。(20201116)

 私自身を「他人がかくあったかもしれない可能性」と見なすことで生きようとしている。けれど多くの場合、他人は私のことを己(他人における己)のあるかもしれない可能性とは見なさず、私として認識する。それが苦しい、私はただ雑多な集積としてありたい、私が私であることが苦しい、実存に常に向き合いつつ生きることは辛い(ただしそれから目を背けてはならない)。私の中にかく在る他者(私は私を他者として生きる [じゃあ私を他者として生きる私ってなんですかね] が、他人は私を私とみなすから、決して日の目を見ることがない他者)は、世界中の誰からも遠い。
 バトラーを読むずっと前から「個人は複数他者」と思っていたことに驚きます。元ネタを忘れてしまって悔しい。存在には全て元ネタがあるんだから、人間は自分のリファレンスを示すべきだと思います。これだと人の心がないみたいなので、愛について弁明しておくと、「人を愛するということは、その人を相対化し切った後でそれでもあなたを絶対と見なすこと」だと去年の私が言ってました(ちなみに人間を相対化し切るのは無理)。人の心ってなんですかね。

言語は世界を固定する。他者との関係に名前を与えると、その関係は固定される。名付ける前の自己と他者の関係は、もっと生々しくてグロテスクなはずである。関係、正しくは瞬間。自己と他者の瞬間。他人といる意味、ひいては自分の存在はこの瞬間にしかないのであって、それに名前を付けて永久保存しようなんて願望は、あえて言うところ病理的である。家族だとか友達だとか恋人だとか、そんな言葉に執着して、瞬間を冷凍保存して、劣化した疑似瞬間を所有しようなんて欲望は病んでいる。他人は他人、自分は自分のまま、2人の境界が溶けてなくなる瞬間を志向して生きたい。

この瞬間は、その一瞬を最高の時間藝術に仕上げる覚悟と、仕上げた瞬間に失う覚悟を要求する。これをもって他人と対峙すること、言葉に回収されない時間を過ごすこと、相手と自分との共作、あらゆる時空を探してもその1つ、一瞬しかない、時間藝術。(20211230)

 かなりバタイユの影響が見て取れます。まず個としての人間が想定されていること。所有的個人批判としての、他者と常に既に連携してある人間観は見受けられない。「他人は他人、自分は自分のまま、2人の境界が溶けてなくなる瞬間」は、完全にバタイユの「世界の透明性」として読めます。あるいは佐々木中からの引用も色濃い。永久保存に対する嫌悪はファルス的享楽へ溺れることへの恐怖。芸術を藝術と書くのは完全に彼に拠っています。芸は樹を刈るが、藝は樹を植える。
 全き個としての個を想定する一方で、確実にネットワークとしての個人も想定していたはずですが、それがどのように両立したのか分かりません。個人はアーカイブだと信ずることと、「私は君のことが好きだ」ということはどのように両立するのでしょうか。あるいは、私から出力される「好き」は残らず愛への意志であるというのは驕りでしょうか。

謝辞

「私はかなり君と仲がいいと思っているよ」
「オレも毎日寝る前にそうだといいなと思ってました」

何度もリフレインしては大事に記憶している会話がいくつもあります。そういうものに生かされています。

人間関係という継続的な何かは無くて、あるのは対話のその瞬間のみだと思います。だから、2人で向かい合って話すことをとても大事に思っています。相関図に表せるような関係性は存在せず、私—あなたでしかないということです。これは、ある種の信仰、つまりは国家も民族も人種もジェンダーも共同体も無し、あるのは人間と彼の認識だけという信仰に基づいています。共同体の否定、内部と外部の否定、善と悪の否定、これは安易にナチ的ファシズムに回収されうる論理(ニーチェがそうであったように)ですが、それを拒否する有効な手段のひとつは世界を承認することです。ファシズムは、外部を措定しそれを排すことで、全て=ひとつを志向しますが、「世界でしかない」ことを認めればそんなことにはならない。

ところで、恋人の文脈で使われる狭義の「付き合う」という言葉は、やはり意味を持ちえないように思います。無い人間関係の連続性を措定し、それに安心感を得るのはどういうことなのか、そういう種の安心があることを理解はするけれども、私はそれをどうも信じ切れないようです。その意味では、書かれた言語の方がよほど信じるに足る。

話を戻します。人間関係は無くて、あるのは対話の瞬間のみだと書きましたが、それだとまるで相手は誰でもいいようです。けれども決してそうではなく、私が話を聴き、あるいは私の話を聴いてくれるあなたは非人称の〈ひと〉ではなく、私が名前を呼びうる他でもないあなたなのであって、あなた以外であることはありえません。

さて、あるのは対話の瞬間のみなのに、その瞬間瞬間の永遠をどうしようもなく願ってしまいます、あまりに軟弱ですね。その軟弱さが、私に会話をリフレインさせるんだと思います。

そういうことを考えました、今日はいい日です、私に話を聴かせ、私の話を聴いてくれる親愛なる友人たちへ、マジでいつもありがとう。

re(230606)-無題

人間の情報で、一番はじめに失われるのは声だと思う。

父方の祖母は、昨年の1月に死んだ。私が年賀の電話をした、3日後だった。私が来週成人式だと言うと、「そうかい、そうかい」と栃木訛りの相槌を打っていた。夏に会いに行く度、「あらまぁ、大きくなってぇ」と驚き、彼女からしか聞かないイントネーションで、私の名前を呼んだ。よく喋り、よく笑う人だった。

母方の祖母は認知症で、5年以上老人ホームにいる。もう末期らしい。彼女と最後に交わした会話は思い出せない。彼女の声も、もう思い出せない。記憶か妄想か定かではない幼少期の映像だけが思い出される。

光も物質のその運動も、その瞬間だけ人間に作用する。そして消える。それに対する解釈だけが、言葉だけが残り、後世の人間を呪い、刻み、造る。

言葉は呪いである。名前は呪いである。

私の名前は中国の季語から取られた。暑い日に生まれたから、そう名付けたらしい。優しい子に育ってほしいとか、強い子に育ってほしいとか、そういった祈りは込められていない。私はただ、暑い日に生まれた人間である。

自分の名前は救いだ。私は誰かの祈りが込められた人間ではないと思うと安心する。親、ありがとう。私はただ人類が自然に対して与えた名を借りている。

「人が思想を語るのではなく、思想が人を語るのである」と西谷修は言うが、そうであるならば、人は言語に語られ、名に語られるのだろう。自然のようにありたい。こちらがそこに何も見出さなければ、ただそれとして生き、死ぬような、カオスに開かれた自然のようにありたい。何者にもなりたくない。しかし常に既に規範に晒されつづける動物がそのように生きるには、意味に凝ることが必要だろう。意味に凝ることは、文脈に凝ることであり、言語に凝ることだ。分類に、規範に、法に、言語に徹底してこだわり、その境界に身を置き続けること。

声は失われ、言葉が残る。それ自体には、哀惜も、愉悦も、意味もない。ただそうであるだけだ。雨でも風でも雪でも夏の暑い日でも、ただそこに在る。もしくは無い。言葉が生む、あるいは言葉を生む闘争の中に絶対に身をさらし続ける、一方的な承認の立場にあると誤認しない、何者かになれという命令を拒否し続ける、そういう強い意志をもって生きていきたい。

 

230606
これは希死念慮やら鬱やらの時期(のちょっと元気な時)に書いた文章を推敲し直したやつ。論理めっちゃガバいし所どころ諄いけど、鬱のドライブ感があって良いのでそのままにした。最後「生きたい」って書いてて、感動した。