マジで一旦普通に悪口
死を見たことのない人間が語る狂気も死もすべて、それこそ言葉遊び、哲学の勉強会に来てなんのリスペクトもなく哲学って結局言葉遊びですねとか社会に埋め込まれてかわいそうとか抑圧ってなくした方がいいですよとか、あなたは社会から切り離されて独立した個人としてなんの抑圧もなく生きてるんですか?ありえないですけどだとしたらなぜ抑圧を感じずに生きていられるのかもっと考えた方がいいです、あなたが見ようとしない他者をまさに見ないことによって成立しているあなたの生はどう考えるんでしょうか、今までアメリカ産の商品を一度でも買ったことがないですか、軍の飛行機がうるさくて授業が進まなかったりしたことがないのってなんでだと思いますか、あなたがふだん民族性や〇〇人ということを考えずに過ごせるのってなぜですか、日本人という事態は日本人それ単体では成立することができず、他の○○人ではないということで成立しています。私が払った金で武器が買われて人が殺されたかもしれず、私は沖縄に基地が集められていることで成り立っている環境で生活をしています。飛行機が落ちてきて死ぬかもとか思うこともないです。
死が他者でよかった、世界のすべてを診断して、数えられるものとして自己に回収して、他人を理解するための診断名があってよかった、ネグレクトに対して「どうしようもないな」と言うだけで片付いてよかったですか?何かを精神医学の言葉で裁断していくことの権威性が問いに付されていることの意味が分からないような場所から研究をして何になるんでしょうか、自己救済?他人との関係性を前提としないような、存在しない自己を?芸術哲学に興味があろうと結局いにしえの人類学者と何もかわらない。「アート」としてカウントしうるものを探してきて狂気のラベリングができて楽しくってよかったですね、なめんなよ。教授の「○○さん自身の関心の問題点ということではなく、分析の枠組み自体の問題点として……」という遠回しのフォローさえ何も伝わってなさそうで、そういうのすべてに腹が立った。前にこんなに怒ったのっていつだっけと思って、思い返せない! 他人を診断することで——つまり精神医学の言葉に限らず属性で他人を語ることで——、他人の言葉を奪っている可能性を忘れたらおしまい! インテリの自覚がないインテリは私と一緒に肉体労働をしようね。
足音
哲学には文字がある、文章がある、書物がある。読みうる。どれだけ時間がかかったとしても読みうる。人間の生の営みを読み解こうと思ったとき、視認できる文字がない。そもそも哲学は視認できないものを書こうとした人たちの残したものなのだが、それが視認できる文字に起こされているってどういうことでしょうか。想像力が信頼されている。足切りがある。私たちは、彼らの文章と同じものを書きうると自惚れて、彼らと同じ高みに立ちうると自惚れて文字の先に行かなければならない。彼らを降ろして彼らにならねばならない。
「彼らになる」。「彼らとして見る」。この「なる」「として」の差分がいま・ここに書物がある意味ですか? 「彼らとして」空間について語るとき、思考が走り出す? 場所に思考が引き出される。物質について語るとき、思考が走り出す。私たちが鳥に「ねぇ」と話しかけるとき、私は世界を読みうる。文字の先と世界が重なる。
哲学筋力をつけ、人々の中にある読みのしなやかさをもって世界に対峙しよう。「あなた自身の文章が死にたさを帯びることになる。けど今のアカデミアはそれを許さない」。「言葉は生きている、人間も生きている。言葉に負荷はかけたくない」。いつか絶対に死をねじこんでやろう、軽やかに。ピアノは液体だからね。バーディアへ、勝手に手紙をよこしたことをまだ許していません。私の文章を褒めたんだから論文くらい読んでよ。
流体の夜
光が照らす実詞の世界のみなさま、いかがお過ごしですか。死者を代弁/表象することで死は理解可能な対象になりましたか。夜の暗さは見えますか、花への、詩への、流体への意志は聞こえますか、沈む海水の冷たさと海底の果てしなさは感じますか。非人称の夜の蠢き、存在へ立ち返らされる夜の地平を予感できますか。
バタイユは、贈与の究極は死だと言ったそうです。望まない贈り物が届きました。「spread 夜、spread 花言葉、spread 液体の連続」、これが夜の過剰ですか。何度割っても何度捨てても圧倒的な受動性に回帰させられる絶対的な贈与に腹を立てています。究極の贈与によって強いられる受動性。能動性が入り込む余地がありません。
He may have......は図式化が作動する前の経験を症状として囲い込みます。決して確定しえない領域を代表し、理解可能性に回収していきます。夜との融解、主客の融即、そこに光を当てたとして何が見えるでしょうか。その投光は、夜を渇望した人間をまた光の世界に引きずり戻すことにはなりませんか(私もこうしてHe may haveの推論をしているわけで、了解のあとすぐにこの議論も遺却されたい)。
イリヤ
イヤホンが点滴になったらおかえり
息を潜めて
殺傷能力の極めて高い言語を求め彷徨うのは、己の加害性を呪うからでしょうか。救われたいからでしょうか。私の発する言語、振る舞い、広くは身体、生きるだけで発してしまうあらゆる情報が、他人を無自覚に傷付け得る。このどうしようもない罪に赦しが欲しい。加害性を忘却することが怖い。清廉潔白の顔をして生きることが怖い。 呪い、恐怖、赦し、これらを貫く論理が欲しくて学問に縋り、これらを抱き寄せて泣く術が知りたくて文学に頼る。全部大丈夫だから、人殺しの顔をして生きていこうね。
どれだけカッコつけて文章書いたところで、じいちゃんが1日も怠らず書き続けた日記には絶対に敵わない。私が信じているものの無意味さ無根拠さを晒し、私を全くの不能にする文章や音楽や人間に出会うとホイホイついて行ってしまう。